西三河地方の木造校舎:後編 平成18年・2006.1.9

旧・下山村 調査 2004年 (平成16年)

 合併前の平成16年には村内には6小学校と 1 中学校があった。 (明治6年からの歴史のある羽布小学校が14年に廃校になった。) この内、下山中学校と花山小学校がコンクリート製で残りの5つの小学校が木造だった。

 最初に訪問した大沼小学校では「木造ではあるが鉄骨入り」 である、と教えてもらった。 次に訪ねた田平沢小学校では、昭和50年建築の木造では最も新しい校舎 (鉄骨入り) だと教えてもらった。最後の時期の木造校舎はしっかり鉄骨の補強がなされているようだ。この後訪ねた阿蔵小学校、和合小学校、三巴小学校の 3 校は普通の木造校舎だった。この3校とも、田平沢小学校と共に平成18年には廃校になり、元の羽布小学校のあった近くに新たに巴ケ丘小学校として統合されることになっている。平成16年の村の人口は約5600人、 児童数4 5 1人で今後さらに減少する見通しだという。村の最も奥にある阿蔵小学校は赤い瓦屋根に白い壁が綺麗な小振りの校舎である。和合小学校は一時的に旧羽布小学校の児童も受け入れて賑やかになっていた。校庭の端は急斜面の山に連なっていて子供達が活動できる施設が作られていた。三巴小学校は黒い板壁に白い窓枠が美しい校舎である。ここでも児童数が減っていて当時1 7人ということだった。また廃校になる学校を今後どの様に使っていくかということを名古屋市立大学の芸術工学部の鈴木賢一助教授と学生のグループが村民の意見を聞きながら提言にまとめる活動が進められていた。

旧・藤岡町 調査 2005年 (平成17年)

 この地域には4つの小学校と 1 つの中学校があるが、木造校舎は使われていない。だが、町の中心地の飯野交差点横にある木造の「藤岡民俗資料館」の建物が昔の飯野中学校の校舎の1つだという。見学した時に、元は理科教室だったと聞いた。資料館の中に掲示してあるパネルに、昭和29年に理科室、家庭科室が新築された。とあったが、それがこの校舎なのだろう。

 資料館はよくみかけるタイプで、元の教室を展示室にして郷土の歴史関係の資料と農具などの産業用具と生活用具が展示してある。敷地に登り窯、水車小屋、古い民家が移転、復元されている。

 最初に訪ねた小学校で町内の学校の校舎について聞いた時、木造校舎は残っていないが、是非見ていって欲しい学校があると、飯野小学校と石畳小学校を勧められた。

 飯野小学校は昭和38年に移転して校舎を新築したが、数年前に全面建て替えされて一見リゾートホテルかと見まごうばかりの立派な校舎になった。コンクリート製だが内装には木材をふんだんに使って木造の持つ快適さを備えている。

 また北部にある石畳小学校も小学校とは思えない斬新な設計の校舎で、1 、2 階吹き抜けの広い廊下にはびっくりした。ここでもたくさんの木が使われていた。 県外からも多くの見学者があるそうである。他では見られない素晴らしい校舎が建てられたのは、豊田市に隣接していて転入者が多く日本一住民の平均年齢が若い、という特殊性と国からの地域振興の補助金を重点的に投入できたことが要因だろう。校舎を案内してくれた先生に尋ねると、豊田市との合併後は学校配分の予算も3分の1位に減るのではないか、と心配されていた。

旧・小原村 調査 2005年 (平成17年)

 現在小原村には中学校 1つと小学校が 3つある。いずれもコンクリート製の校舎になっている。期待していた山間部にある道慈小学校も少し前に改築されていた。私の手元にある昭和45年の5万分の 1の地図には他にも3つの学校が載っていたが、雑敷地区にあった小学校は廃校後更地になり、今はゲートポボール場になっているそうだ。久恵畑地区の清原小学校も廃校になって取り壊され、跡地周辺は現在ゴルフ場になっているそうだ。
 簗平小学校の跡地は工場になっているらしい、という話しを聞いて地図を便りに探しに行った。広場のある場所を運動場の跡だろうと見当を付けて、その横にある大きな倉庫のような建物の 2階にある事務室を訪ねた。ここは学校の跡かと聞くと、そうだ。という返事だった。敷地の隅に古い木造の小さい建物があったので、かつての学校の建物の残りかどうかを従業員の人に聞いたが、分からないという。近くの民家の人に確認しようと思って訪ねたが、留守のようで、犬が鳴くばかりであった。昼間の農村では皆さん畑に働きに出ているせいかなかなか人に会えない。仕方なく工場の裏手側に回ってみると二宮金次郎の像と学校の沿革を記した石碑があり、学校だったことは間違いがないと確認できた。手元に簗平小学校に関する資料が無かったので、石碑の文章を写した。下はその全文である。

(陽・表の面〉

築平学校の跡

成瀬幡治 書
(陰・香の面)

明治五年十月     平畑郷学校創設
明治二十年四月一日    公立小学平畑学校廃校
明治三十五年四月一日   本城尋常小学校簗平分教場開校
明治四十年一月一日    小原第五尋常小学校独立
昭和八年十一月二日    校舎現在地に新築落成
昭和十六年四月一日    小原村築平国民学校と改称
昭和二十二年四月一日   小原村立簗平小学校と改称
同年五月十五日    小原中学校簗平分校併設
昭和四十八年三月二十四日 同右簗平分校閉校
昭和五十三年三月三十一日 統合により簗平小学校閑校
 卒業生 修了生 一四四八名
 昭和五十三年三月 建之

旧・旭町 調査 2005年 (平成17年)

 役場横の橋を通って矢作川を渡ると眼下に小渡小学校が見える。そこへ降りる細い道を探してようやく着いた。ここで職員の先生に町内の学校について教えてもらった。現在は中学校が 1つ、小学校が 3つあるがどこにも木造校舎は残っていないそうだ。小渡小学校自体が新しくて立派な校舎である。西三河地方では山間部に立派な学校が点在するので、これは僻地振興のための国の補助金を使ったのかと思って尋ねると、ここでは矢作ダム建設による補償金のおかげで改築できたのだそうだ。昭和45年編集の 5万分の 1の地図に載っていた矢作川のそばにあった生駒小学校は廃校になり福祉施設となった。浅野小学校も廃校になったが、校舎は郷土資料館として使われていると教えてもらった。 郷土資料館の前は広い駐車場になっていて、入り口には学校時代の石の門往と二宮金次郎の石像がそのまま残してある。その横に「学び舎の跡」と題して浅野小学校と浅野中学校の沿革を記した石碑がある。それによると浅野小学校は明治5年に始まり、昭和45年に統合により閉校になった。浅野中学校は昭和22年に設立され、平成8年3月まで続いたが、やはり中学校の統合で閉校になっている。それまでは小、中学校が並んで立っていたわけだ。三河最北端の地にあり、山の裏は岐阜県(美濃地方)であるため越県合俳で三濃小学校、三濃中学校と称された時期もあることもわかった。駐車場の奥に事務所と資料館 (旧校舎) の建物がある。中学校の校舎はコンクリートの基礎が高く作られ、教室・廊下の明かり取りの窓も高く作られて堂々とした印象の建物だった。

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