持統上皇の三河国行幸の足跡

はじめに

私は豊川市にある国分尼寺跡史跡公園にある「三河天平の里資料館」でボランティアガイドをしています。先日岡崎市の「万葉の会」のグループの皆さんが国分尼寺の史跡見学に来られました。これまでは万葉集について特に興味を持っていませんでしたが、古代史にかかわるガイドとしては多少のことは知っておいた方がいいかもしれないと思い、この地方に関わる万葉集の歌と地理について調べてみました。なにぶん付け焼刃なので間違いがあればご指摘ください。

持統上皇の三河国行幸

702年(大宝2)の秋、持統上皇は三河の国に行幸した。10月に出発、11月半ばまでの45日間に及ぶこの大旅行は三河の国とその周辺の諸国に天皇の権威を示し壬申の乱後の律令体制の強化をはかったものと思われる。持統上皇はこの旅の1か月後に58歳で亡くなっている。人生最後の大事業でありながら「続日本紀」には三河で何をしたかという記述が全くない。帰途立ち寄った国々ではその国の功労者に褒美を与えたなど具体的記述があるので不思議である。「御津町史」では、持統天皇と似た政治状況であった元正女帝の美濃国行幸の事例を挙げ、持統上皇も東国の多くの国司らを集めて政治的結びつきを強めるとともに各国の騎兵をそろえて軍事デモンストレーションをしたかもしれないと推測している。皇位継承問題で不安の多かった持統上皇にとって何度もおこなった行幸は政権強化の方策であった。三河行幸は若くて天皇になった孫(文武天皇)と生まれたばかりの皇子(のちの聖武天皇)への最後の援護射撃であったかもしれない。しかし退位した上皇が天皇のような行為をしたことは文武天皇の治世の記録としてふさわしくない、として「続日本紀」の編纂過程で事績が削除された可能性がある。しかし「万葉集」には持統上皇に従って旅をした長忌寸奥麿(ながの・いみき・おきまろ)と高市連黒人(たけちの・むらじ・くろひと)の詠んだ歌がいくつも載っている。そこで歌人たちの歌を手掛かりにしてこの地方の足跡を探ってみた。

持統上皇の三河行幸の史跡

1、御津町下佐脇字御所  持統上皇行在所跡  

行幸の際の行在所があったとされている。後世、神聖な場所として小さな祠がたてられ御所宮と称した。このお宮は現在下佐脇の佐脇神社境内に移され御所大明神としてまつられている。かつてこの近くに大きな老松があって明治初期に村政に功労のあった石川信栄(彦七)が建てた行在所記念碑があった。この老松の北方近くに(御馬字宮浦)5坪ほどの塚があり、ここが行在所跡と言い伝えられていたのだが、地主との折り合いがつかず、老松の場所に碑を建てた。その後河川敷にあった松は枯れ護岸工事もあって碑は現在の場所に移された。1746年(延享3)の御馬・下佐脇両村の論所絵図の写しには、御所宮行在所の場所が音羽川の左岸に示してある。(「みと歴史散歩」P.137)

  • 御津町御馬・音羽川右岸堤防横「持統上皇行宮跡」の碑   

 前述石川信栄の碑のほかに平成2年(1990)に建てられた歌碑と市の案内板がある。

 ① 自然石に「持統帝□□在安跡  石川信榮謹建之   當□」とある。

  *□は判読不能。3行目は剥落があるか? 當の次の□は漢字の扁の肉月のみ読める。

 ② 歌碑「三河への御幸は皇子の跡訪かと 紀にのこらねど吾は記さむ  磯夫」

建立は三河アララギ会と御津町御馬。磯夫は歌人で万葉研究者の御津磯夫(=今泉忠男)。

*伝説では壬申の乱の時、草壁皇子は東国各地で兵を募ったという。宮路山の麓にも御座を設け、のちにそこに草壁皇子を祀ったのが赤坂の宮道天神社である。

3,宮路山山頂「宮路山聖跡 愛知県」碑   

大正6年、県の大正天皇ご即位記念事業として建設。高さ2.7メートル、台石の重さ3.4

トン。町民が山頂まで運び上げた。

碑文に持統上皇が三河行啓された時、この紅葉を観覧された、とある。この紅葉はコアブラツツジの群生で、旅の途中で宮路山を見た平安時代中期の藤原孝標の女の「更級日記」(1020年)や鎌倉時代の阿仏尼の「十六夜日記」(1277年)の中に紅葉を詠んだ歌がある。

御津町の引馬(ひくま)神社にある万葉碑

神社は一条天皇の正暦年中(992~)に京都八坂神社から勧進されたと伝えられる。明治初年の神仏分離政策によって、それまでの牛頭天王社の社号を改めて引馬神社とし、祭神の牛頭(ごず)天王の名は仏教用語であるから神仏習合で牛頭天王と同一の存在とされた須佐之男命(すさのおのみこと)に改めた。社号は古代この地一帯を引馬野と呼んだという伝承にちなむ。境内には3基の碑がある。

① 「引馬野・阿礼乃崎 斎藤茂吉」碑 歌人斎藤茂吉の筆による

② 「引馬野・安礼乃埼 斎藤茂吉」碑。右下に「御津磯夫考証」と小さい字があり、裏面は斎藤茂吉の日記が彫ってある。字体は活字体

③ 万葉歌碑 「三河アララギ」を主宰した御津磯夫が建立。万葉集・巻1の2首。

万葉集 巻1 

二年壬寅 太上天皇幸于参河国時歌

引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能知師爾

   右一首 長忌寸奥麿」

何所爾可 船泊為良武 安礼乃崎 榜多味行之 棚無小舟

   右一首 高市連黒人

長忌寸奥麿の「引馬野」の歌について

引馬野に にほふ榛原 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに

訳 引馬野に美しく色づいている榛の木々

 その原に分け入って衣を染なさい 旅のしるしに

  • 榛(はり)の木:ブナ目カバノキ科 落葉低木 ハシバミ ハンノキの古名

           木の実や樹皮を染色の材料とする。

引馬野の場所

江戸時代の国学者賀茂真淵は「万葉考」の中で阿仏尼の「十六夜日記」にある「ひくまの宿といふ所にとどまる」とある部分を引いて、遠江説(今の浜松市の引馬町)を述べた。

延喜式に「引摩の駅」、鎌倉幕府の記録の「東鑑」も「曳間宿」の名がある。

しかし郷土史を研究した御津磯夫や国文学者の久松潜一などにより三河説が有力になった。愛大の久曽神昇教授は、詳細な地理、地名検討から間違いなく御津町御馬であるとした。万葉研究者の竹尾利夫教授によると、鎌倉中期までは「引馬野参河之国也」(歌学書「仙覚抄」)と誰もが考えていた。また江戸時代の渡辺富秋の「統叢考」(1723年・享保8)に、建久2年(1191)、源頼朝幕下の比企盛長が当国宝飯郡を治めていた時、引馬を改め御馬邑とした。と書かれていることに言及している。(「万葉の旅人」P.4)

斎藤茂吉は昭和16年に御津磯夫の案内でこの地を訪れ、宮路山にも登っている。その時に詠んだ歌

「いにしへの引馬の野べをゆきゆきて 萩の過ぎたることをしおもふ」

「萩」は原歌の「榛」を「ハギ」と訓(よ)む説に従っている。陰暦の10月には榛の木は落葉樹のため葉は枯れるか落ちてしまい美しい姿ではない。原というからには枯れ木の原より萩の花咲く原の方が美しい。萩は花も紅葉も美しいが、花は7月から10月がシーズン。陰暦の10月には花は散っていて紅葉を見たのかもしれない。もっとも歌は花の盛りのころの姿を想像して詠まれたのかもしれない。

御津町の北隣の為当町の「市木公園」にも「引馬野」碑が2基ある。

① 「引馬野」碑 自然石に文字のみ。以前は少し離れたところにあった。

② 「万葉歌碑」と題して万葉集とは違う変体仮名で長忌寸奥麿の歌が彫ってある。歌は2行目から「ひくまのに」と始まり最後の「しるしに」の言葉が一番右に戻って書いてある。和歌の書き方の一種なのだろう。裏面には歌の説明と建立者等の記述があるが。達筆すぎて読めない。後世の人に伝えたいと願って建てた碑なのに普通の人が読めないのでは本末転倒である。碑の建立は「丁巳」とあるので昭和52年と思われる。

前掲の竹尾利夫教授は「引馬神社から下佐脇一帯は近世の干拓地であるから 古代の引馬野はやや北寄りの佐脇原から本野原にかけての地域と推測される。」としている。

私見ながら、これまで「引馬野」は「馬」の文字に引かれて「御馬」地区に限定されていたが、「野」の文字に注目すれば、為当、森、佐脇地区にわたる広大な原野だったとも考えられる。

参考 知立市の三河バイパスのそばに昭和28年に当時の知立町によって「引馬野の歌碑」が建てられた。(鈴木源一郎著「東三河文学碑」)

高市連黒人の「安礼の崎」の歌について

何処(いずく)にか船(ふな)はてすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

訳 今頃は何処に船泊りしているだろうか

 安礼の崎を漕ぎめぐって行ったあの棚無し小舟は

 安礼の崎の場所

 岩波の古典文学大系の本には「安礼の崎」に「引馬野の南の岬」と頭注がある。

音羽川河口の現在の姿は近代の改修によるもので、それ以前は今の国道あたりで南東に折れ、下佐脇地内で海に注いでいた。年代の分かる最も古い地図は1652年(慶安4)の下佐脇と梅坪村との蛤取場論争絵図と1746年(延享3)の御馬・下佐脇両村の論所絵図がある。江戸中期1746年(延享3)の絵図には、御馬の引馬神社一帯から松の多い沿岸部が南東に延びて岬となっていて「安礼野崎」と書き込まれている。

安礼の崎、蒲郡市の御前崎説

万葉研究家の土屋文明は安礼の崎の歌を海上航行中のものと考え、蒲郡市の西浦半島にある御前崎と想定した。御津磯夫は現地調査をしてここを最適地と結論した。(「引馬野考」)

昭和41年、西浦観光協会の手により西浦半島の稲村明神に「安礼之崎歌碑」が建てられた。眼下の三河湾は正面に渥美半島、右手に伊勢、左手に蒲郡、御津方向が望める絶景である。(*異説に浜名湖の「新居」(新井里)とする説もあった。)

下佐脇の佐脇神社横の公民館に幕末から明治初期と思われる古地図が3枚保管してあり、改修前の蛇行する川筋と改修後の直線的川筋を比較してみることができる。河口近くにかつてあった御津湊の様子もわかる。御津湊は三河五箇湊の一つとして東三河の天領の年貢米を積み出す港として栄えた。古代の御津(国府外港)を想像させます。

 万葉集の巻3「雑歌」の部に載っている高市黒人の羇旅歌も持統上皇の三河行幸の際に作られたものです。

高市黒人の「羇旅歌」 

旅にして 物恋しきに山下の 赤のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ (万葉集 3-270)

           (御津町泙野 御津山(大恩寺)山下橋付近とされる)

訳 旅してはるばる遠い国へやってきたが、次第に都が恋しくなってきた

    山の上から海を眺めると朱塗り船が沖へ向かって漕いでいくのが見える

      あの船はまさに都の方へ向かっていくのだと思うと郷愁を抑えきれない

四極山 うち越え見れば笠縫の島漕ぎかくる 棚無し小舟(おぶね) (3-272)

四極山(しはつやま)は幡豆の山。笠縫の島は「梶島」とされる。

*棚無し舟:船の構造強化と波よけのためにつける船棚がついていない庶民の小舟。

*赤のそほ船:朱塗りの船。即ち官船。大型船で船棚がついている。

三河行幸の往路については記述がないが、日数からして往路は船旅で、伊勢から海路三河へ向かったと考えられる。伊勢(松坂)港を出てまずは知多半島を目指し、三河湾に入ってからは三河国府の外港の御津に向かうが、その際安全のために早めに陸に近づいて沿岸を進むとすれば、幡豆海岸から西浦半島に至る。

船のコースは、幡豆(四極山)→西浦御前崎(安礼の崎?)→御津山(山下)→御津(安礼の崎?)となるだろう。

黒人の歌は山(陸上)から海の小船を眺めて歌ったものが多いが、土屋文明が歌を海上航行中のものと考えたのは卓見だったと思う。長い船旅のあと、目的地の陸地に近づいた感動を、視点を逆転させて、陸から海の船を眺めて都を思う旅愁の歌としたプロの技ではないか。あるいは、久曽神教授によれば古代の東海道は海岸ルートだったから尾張への帰路の途中に実際に山に登ったのかもしれない。歌は山の上から遠い海原を見下ろすパノラマのような景色を見せているが、安礼の崎=御津説では標高1メートルからの景色でやや雄大さに欠ける。無論これだけでは、安礼の崎=御津説否定の根拠にはならない。

私は古代史の本を読みながら地理的に疑問に思ったことがあります。

古代は海岸線が今より陸に上がっていたと聞きますがどれくらいだったのか。御津山の麓に「泙野・なぎの」という地名があります。広石には「船津」の地名がありここまで御津川が湾入していた可能性があるそうです。(私は川船の荷上場(湊)ではないかと思います。)また音羽川の川筋も昔は違っていたという説があります。諸説が参考にする古地図といってもせいぜい江戸時代のもので、そのまま千三百年前の古代の地形の参考になるのだろうか。

航路地図 以上の点から上皇の行在所(行宮)跡に疑問を感じます。近くに御所橋がありますがこれは歴史を伝える証拠にはならず、伝承から生まれた名称だと思われます。行在所跡とされる場所は、当時は今よりもっと海が近く、周りが榛の生い茂る原野だったとしたら御所にはふさわしくありません。建物があったとしても上陸して一服する休憩所程度でしょう。こんな殺風景な所に長居はできません。上皇は川船に乗り換えて音羽川を上り、下船後は古代の東海道を通って国府に向かったのではないでしょうか。国府は三河湾を見渡せる白鳥台地の上にあり、ここを行在所にすれば1ヶ月の滞在も安全、快適に過ごせたでしょう。

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