二宮金次郎像の書籍が出版されます:三河の金次郎像全調査

二宮金次郎、尊徳の立派な人生の話ではありません

矢作川の源流から渥美半島の先端まで、二宮金次郎像を求めて三河地方を尋ね歩くこと10年。三河の金次郎像についてほぼすべてのデータがそろいました。

文献、資料も渉猟して金次郎像が作られた起源から学校に普及した時代背景、修身教育のトップスターとして教育や社会思想への影響もまとめました。明治の農業発展に貢献した報徳社や政治活動にかかわった報徳会のことものっています。金次郎に関するミニ百科事典です。

チラシ

ご興味がある方

2022年10月10日に春夏秋冬叢書より「三河の金次郎像全調査」が出版されます。

春夏秋冬叢書様のサイトで、目次および各章の数ページを無料で読むことができます。ご購入の参考にしてください。

購入されたい方、ご興味がある方は購入サイトをクリックし、注文フォームよりご予約・ご注文ください。

また、amazonからも購入可能になったようです。関連書籍と共に確認ください。

三河の二宮金次郎像全調査の補遺

令和4年10月10日に「三河の金次郎像全調査」を春夏秋冬叢書から出版しました。しかし本に書ききれなかったことがあり、また本を見て新たな情報を寄せてくださる方もいました。出版後2か所の誤りが見つかりました。それらのことを読者の方にお伝えしたいのですが良い方法がありません。また未解明だったことは今後も調査をしたいと思っていますが時間もかかるため、とりあえずメモだけでもおネットに上げたいと思います。

  2023.3.30

記載内容の訂正

 91ページ9行目 「旧・本郷小学校」を「旧豊根小学校(旧・黒川小学校)」に訂正

 黒川小学校は昭和42年(1967)に三沢小学校浅草分校と統合して豊根小学校となった。。金次郎像はここに残っている。平成17年(2005)三沢小学校、坂宇場小学校との3校統合により新・豊根小学校が生まれ現在の校地に移転。

その1 豊田市の古瀬間小学校と首無し金次郎像

 随分以前、安城市の公園に首のない金次郎像がすててある。という話を聞いたことがあったが、当時は特に気にせず、確かめることもなかった。金次郎像の調査を始めて岡崎の旧大雨川小学校で金次郎像の首が転がっているのを見た時、安城の像のことを詳しく聞いておけばよかったと思ったが、どこの誰から聞いたかも忘れていて後の祭り。
ところで今回の本の出版の話をしていたところ豊田市の小野田阿辻さんが古瀬間小学校の裏山で首のない金次郎の像を見たことがあると教えてくれた。古瀬間小学校は近年の住宅開発で児童数が増えたため、移転して大きな学校になった。像のある場所は以前学校のあった場所の裏山である。斜面を登り切ったところの奥が下り斜面になっていてその下ったところに像があったそうである。小野田さんは近くに住んでおられ、良かったら案内してもいい。と言われた。首無し像が見つかれば、現在古瀬間小学校にある像は2代目の像ということになる。そう思ってみると現在の像は昭和11年建立にしては新しいようにも見える。これまでの調査では11年建立の記録しかなかった。もし2代目なら再建された年の記録があるかもしれない。しかし学校移転があると古い書類が失われることがあるし、戦後の再建だと記録すら残されていない場合があり、発見は難しいかもしれない。
追記
2023年3月19日豊田市の小野田さんから、旧古瀬間小学校跡地の裏山に放置してあった像の確認に行ってみたが発見できなかった。という報告を聞いた。何しろ首のない金次郎像を見たのは50年以上昔の小学校時代のことであり、山の斜面の土などで埋まってしまったのかもしれない。わざわざ確認に行ってもらったことに感謝します。

その2 金属供出を逃れた銅像の金次郎

 日中戦争中に出された国家総動員法により資源確保のため金属供出が始まり、昭和17年にはとうとう学校の金次郎像も対象になった。通説では特例として神奈川の報徳二宮神社の像だけは供出をまぬかれたという。供出は北海道から鹿児島の離島にまで及んでいてその徹底ぶりがわかるが、どういうわけか残った像があるという。
 2021年9月6日付けの朝日新聞に「岩手県から 残った二宮像 反戦の証?」の記事が載っている。岩手県一関市の旧中川小学校の二宮像は1940(昭和15)年の建立とされる。小学校跡地の隣に住む及川修三さんは「供出の命令が来なかったから」と耳にしたことがある。ただ、「地域の長老の話では・・・窓のレールまで持っていかれたそうだ。そんな中で二宮像をみのがすかなぁ」と少し疑問にも思うという。「せめてもの、抵抗だったのでは」と推察する。という内容である。
 余談 私が子供のころ通った学校の校舎は木製のガラス窓でレールが竹製だった。まっすぐで丈夫な竹はなかなか良い金属代用品だったと思う。
 このほかに供出を逃れた像について「西さがみ庶民史録 第16号(1987)所収の「二宮金次郎の銅像」(岩本 努・著)に2件が紹介されている。
 尊徳の子孫が住んだ福島県原町市石神第二小学校には「小岩12年太田、星両氏の寄附による銅像が現存している」(福島県教育史 第二巻)。
 三重県安芸郡の辰水小学校には一九三六1936(昭和11)年六月建立の銅像が「戦時中の供出をまぬがれ今日なお現存する」(三重県教育史 第二巻)。
 上記3基の像は文献上の情報のみで、私としては現地へ行って真偽を確かめたい気持ちである。

その3 愛知県立蒲郡高校の金次郎像

 豊川市の伊藤正英さんは、勤務先の蒲郡高等学校の倉庫などに長らく保管され眠ったままになっている文書や標本を発掘点検し、その成果を郷土史や学校史の学習に活用しておられる。今回その資料を頂いた。その中の写真に私の興味をひくものがあったので一部紹介する。①昭和15年の「開校記念マラソン」の写真には背景に立派な奉安殿が写っている。②「創立六十周年記念写真集」に卒業生が寄贈した二宮金次郎銅像(昭和11年3月)が載っている。
蒲郡高校の前身は大正2年創立の宝飯郡立西部農学校で、大正12年からは愛知県立蒲郡農学校となり、昭和23年に蒲郡高等女学校と合わせて蒲郡高校となった。農学校時代に金次郎像があったのは自然である。この像は残っていないが戦争中に供出されたのだろう。写真を見ると名古屋市の旭ヶ丘小学校にある金次郎像によく似ている。旭ヶ丘小学校の像は供出を免れた数少ない像と言い伝えられている。旭ヶ丘小学校の像の写真は「岡崎地方史研究会研究紀要第26号」掲載の「二宮金次郎像の建設とその背景」(嶋村博著)のものを使わせていただいた。  

東愛知新聞で紹介されました

「三河の金次郎像全調査」が東愛知新聞で取り上げられました。下記リンクよりご興味がある方は豊川堂、精文館書店の一部店舗ほか、ネットなどで購入可能です。

http://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/10495

購入されたい方、ご興味がある方は購入サイトをクリックし、注文フォームよりご予約・ご注文ください。

中日新聞で紹介されました【2022/12/3:夕刊】

「三河の金次郎像全調査」が中日新聞で取り上げられました。ご興味がある方は豊川堂、精文館書店の一部店舗ほか、ネットなどで購入可能です。

購入されたい方、ご興味がある方は購入サイトをクリックし、注文フォームよりご予約・ご注文ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です