中国の古代の切り絵についての文献

(1)前1世紀ころ書かれた司馬遷の「史記」に、周代初期の成王(前10世紀ころか)が弟に梧桐の葉を玉圭(諸侯の地位の印)の形に切って贈り、唐国(山西省西部)の領地を与えると言った。という記事がある。紙はこの千年ほど後の後漢代に実用化されたから、切り紙ではなかったわけである。司馬遷の史記もまだ紙が無かったので木簡に書かれた。

(2)6世紀南北朝時代の梁の宋懍の著「荊楚歳時記」に、当時の「人日」の行事や「人勝」の切り絵のことが書かれている。それによると、揚子江中流地域では正月人日の日と立春の日に綾絹や金箔で人の形や燕の形を切り、春を迎える行事があった。

(3)唐時代の詩人杜甫(8世紀)には「紙を剪(き)りて我が魂を招く」(「彭衙行」注1)と「勝裏の金花巧に寒に耐ふ」(「人日」注2)という、切り絵に関する二つの詩がある。中国では現在でも正月に壁や窓にめでたい図柄の切り絵を貼る風習が続いており、正月前には市場で切り絵を売る店がにぎわう。遣唐使として中国に渡った日本人も滞在中にこのような切り絵を見たはずである。現在中国広東省の仏山で作られている切り絵は金属箔を使い裏に色紙を貼ったもので、正倉院に伝わる「人勝残欠」によく似ている。

(注1) 馬や幣の形に紙を切り抜いて精霊を呼び、旅の安全を祈った風習。

(注2) 人勝の切り絵の金箔の花は生き生きとした姿で寒さに負けていない。

「荊楚歳時記」について

 日本の宮廷の年中行事の指南書と呼ばれた書物である。これを見ると現在日本で見られる桃の節句、端午の節句、七夕などの行事が中国南部の生活風俗と深くつながっていることがわかる。

「正月の七日を人日と言い、七種類の菜(野草)をもって吸い物を作り、綾絹で人の形を切り抜き、あるいは金箔を刻んで人の形や花の模様を作り、それを屏風に貼ったり、また頭の髪につけたりする。また華勝(首飾り)を作りお互いに送る。」

「立春の日には女たちは綾絹を使って燕雀の形を切りこれを耳際の髪にさして飾り、また「宣春」の二字を門に貼り春を迎える。」

出典 

「きりえ入門」日本切り絵協会編 保育社  p.101~102

雑誌「人民中国」1983年10月号「中国の民俗をさぐる」 p.59 

図 広東省仏山の切り絵

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