西三河地方の木造校舎:前編 平成18年・2006.1.9

平成17年 4月 1日を以て豊田市と周辺町村の大合併が行われ、西三河地方に巨大な新・豊田市が生まれた。豊田市に吸収された周辺町村はいずれも西三河の山沿いの地域で、工業都市化して大きく変貌した豊田市と対照的に個性ある伝統文化を残し、行政や教育においても町村ごとにそれぞれの取り組みが成されてきた。吸収合併のため合併後は豊田市という一括行政下に置かれることになり、教育においても豊田市が採用していた 2学期制への切り替えが行われるなど、大きな変化がみられた。吸収された 4町 2村には多くの木造校舎が残っている。たまたま合併前年の平成16年から合併後の17年にかけてこの地区の学校を見て回った。

旧稲武町地区

 以前、稲武町の学校を調査した時には、行政上は東三河の北設楽郡に属していた。戦後、豊田市が大発展して距離的にも近い豊田市と経済的にも文化的にも結び付きが深まり、1970年代には住民から西三河への編入を希望する声が起こり、平成15年にはついに西三河の東加茂郡への編入が決まり、さらに17年に豊田市に合併となった。

旧足助町地区 調査 2004年(平成16)一2005年(平成17)

 足助町を訪ねる前に昭和45年編集の 5万分の 1の地図を調べてすべての学校のマークをチェックした。山の奥にある学校は廃校になっているおそれもある。まず役場を訪ねて教育委員会で足助にある全学校を紹介するパンフレットをもらった。そこには11の小学校と1 つの中学校が載っていたが、そのうち、大河原小学校は (コンクリート製なのに) すでに廃校になって資料館として使われていると教えてもらった。パンフレットの写真を見て、いかにも古そうな、白い土壁に下見板張りの腰板をもつ半和風の木造校舎である御蔵小学校を見にいった。ところが行って見ると木造校舎は跡形もなく、大きなコンクリート製の近代的デザインの校舎が立っていた。近くに住む人に聞くと、最近建て替えたのだそうだ。パンフレットは数年前のものだった。

 そこで次に、廃校となった学校を見にいった。足助は豊田や名古屋に近いためか、廃校を転用するところが多い。

旧大見小学校

 平成 7年閉校。その後、人材派遣会社が借り受け、訓練所兼宿舎として使っている。ここで技能訓練を受けた者はトヨタ自動車関連の工場に派遣されるそうである。

旧御内小学校

 細い山道をずいぶん入った奥にある。そのせいか学校が設立されたのも明治30年になってからである。多い時は60人の児童がいたが、林業の衰退で住民が減り、昭和62年の閉校時には、 8人だった。閉校後、役場の倉庫として使われていたが、10年ほど前に木工家の松本さんが役場の紹介で作業所として一部を借り受けた。その後他の工芸家に呼び掛けて、平成17年に木工、陶芸、竹細工、楽器製作の工芸家が工房として利用することになった。体験教室を開き、作品の展示販売もしている。足助町が平成16年に集会施設を新設し、17年には校舎の改修も完成した。私が16年に初めて訪ねた時は校舎は改修前で、他では見掛けない古いタイプの校舎だった。記録では、校舎は昭和6年に現在地に新築され、昭和18年に増築されている。2度目めに訪ねた17年の夏休みには校舎は外観はそのままに残して改築されていた。子供達が野外活動に来ていて、 運動場にキャンプ用テントが沢山並んでいた。

旧椿立小学校 (あすけ里山ユースホステル)

 田舎暮らしを考えていたご夫婦が役場の紹介でここを紹介してもらい、平成10年からユースホステルを開業。自然観察や山仕事 (間伐、炭焼き) の体験を企画。奥さんは染色工芸家で館内にも展示がある。近くに無形文化財の盆踊りで有名な平勝寺がある。まずは平勝寺を目標に向かったが、くねくねとした細い山道で対向車が来たらお手上げなのでビクビクしながら車を運転した。方向感覚も無くなり、分岐点で道を間違えてとうとう舗装も消えて進めなくなった。改めて別の道を取りようやく坂道を上りきると、開けた場所に出て道幅も広くなっている。私は30年ほど前一度来たことがあり、その時の記憶で古い道を取ったのだが、最近新しい道が開かれたようで、道幅が広いこちらを取れば良かった。少し行くと、「こんな細道に入っていいのかな」と不慣れな私をためらわせる細い脇道にユースホステルの看板があった。そこを下った所にユースホステル (旧椿立小学校) があった。その時は細道を運転するのに精一杯だったが、再び訪ねた時には、道端に「通学路開通記念」の石碑があるのに気付いた。 建立は昭和3 9年となっていたが、今でも空が見えないはほど木が茂ってトンネルのようになった細道である。それ以前は人が 1人通れるだけの暗くて急な山道を子供達は通ったのだ。凄い!

旧大多賀小学校

 足助町では一番奥地にあるので、行ってみるまでは校舎が残っているかどうか心配だっ た。学校は主要地方道に面しており、赤い屋根の2階建ての校舎だった。校歌碑と沿革を記した閉校記念碑がある。それによると、学校は明治11年 9月に北設楽郡小田木学校大多賀分教場として開校、とある。足助は西三河に属しているが本校の小田木は東三河にある。明治21年 9月になって加茂村第 6国民学校と改称独立、となっている。山間部では通学困難のため行政区分を超えて学区が設けられることがあった。旧旭村では県境を超えて通学する学区があった。

昭和四十三年 東中学、足助中学と統合のため閉校
昭和四十六年 御内分教場閉鎖
昭和四十六年 大多賀分校休校

冷田小学校

 旧校舎から少し離れた場所に木造のモダンな校舎が新設された。現在の技術では木造でも鉄骨構造に劣らない大型の建物ができるようになった。体育館兼講堂の高い天井は船底の竜骨を逆さまにしたような構造である。教室や廊下は無論、机も椅子も鉄パイプは使ってなく、すべて木でできているため、森の中にいるような気持ちになった。
 広い校舎と運動場を持つ新校舎に比べると旧校舎はこじんまりとした建物だが南側の運動場を抱え込むように立つ明るい校舎だった。移転も済み、旧校舎はまもなく解体するという話だった。人気の全く無い校舎と運動場を見つめるように二宮金次郎の像が一人立っていた。

明和小学校

 山の中ではあるが、小高い丘の上にあるので日当たりがよく運動場も広くて明るい印象を受ける。赤い屋根に白い壁の校舎も明るく、昭和37年建築の校舎であるが、古さを感じない。 平成17年 3月時点で児童数34人。3 、4年生は複式学級で行っているそうである。

追分小学校 則定小学校

 両校とも外観がスッキリしていて一見コンクリート製にも見え、木造かコンクリート製か分からない。中に入って木の階段や天井の「ほおづえ」を見てようやく木造とわかる。最近の建築ではコンクリート製でも屋根付きの建物があるが、これまでは屋根は防水加工して平らな屋上にするのが普通だった。それが文部省の学校建築の基準だった。その方が工事費が安くて済むらしい。そう言えばこの2つの学校も外からよく見れぱば瓦屋根がのっていた。

後編につづく

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