街角の木造洋風建築/平成12年

今では住宅会社がカナダやスエーデンから西洋住宅を輸入・販売しており、普通の家庭住宅でも洋風建築は珍しくない。しかし50年ほど前までは身近な洋風建築といえば、学校や役場、病院などの公共建築か、お金持ちの邸宅ぐらいのものだった。洋風建築と言っても小さな木造建築で下見板張りに白いペンキを塗った程度のものがほとんどだった。西洋式に靴のまま中まで入れるのは役場くらいのもので、学校や小さな病院では日本式に靴を脱いで中に入った。多くの学校は下見板張りといってもペンキを塗らず生地のままであった。そんな建物も1960年代の高度経済成長期にコンクリート製の大きな建物に変わっていった。現在では本来の役割を終え、幸いにも建て替えや取り壊しを免れた建物が都市化の緩やかな地方の町や村にわずかに残っているにすぎない。特徴ある建物は車の窓からでも目に付くが、多くは特別に優れた建築物という訳でもないので保存の動きもなく、いずれは消えていくことだろう。たまたま私が目にした建物だけでも記録しておくことにした。(残念ながら平成の終わりにはその多くが消えてしまった。)

市田町公民館 (豊川市市田町) 現存せず

県道脇に建つ下見板張りの総2階の建物。今は縦長のはめ殺しのガラス窓であるが、以前は上げ下げ窓だったと思われる。いかにも後から付けたと思える自警団の消防器具庫が横に付いている。道の対面には火の見栓が建っている。東隣にあるお寺で建物のいわれを聞いたが、若いご住職で、よく知らない、というので西隣の民家を尋ねた。子供の時からずっとここに住んでいるという80歳 (2003年時点) の井上さんから詳しい話しを聞かせてもらえた。

 この建物は昭和 9 年に八幡村信用販売購買組合 (産業組合) の事務所として建てられたものである。井上さんが小学校 5 年の時だった。家のすぐ前にできたので家から事務所で仕事をしているのがよく見えたという。この土地は市田農事組合のものでである。ここでは、肥料やお菓子、パン、うどんの販売、精米、金融等の仕事を行った。農業倉庫の大きな建物もあった。戦時中に農業会に変わり、戦後には農協に変わった。 昭和18年に豊川市ができたが、それ以前ここは八幡村で、この横に村役場があった。戦後役場は市役所の支所となり、その後公民館になった。戦後20年程して農協はこの元八幡村役場へ引っ越した。その時公民館が元農協のこの事務所あとに入れ替えで移った。

 昭和40年代にバスを豊川と国府の間に走らすというので、道が広げられて建物を東北に少し動かした。その時の移動で建物がいたんで梁が波打っている。バスが走っていたのは数年だった。2階は広間になっていて30畳くらいの広さである。窓は修理する以前は上げ下げ窓だった。アルミサッシにする時1枚ガラスになった。 今では自警団 (消防団)が消防器具庫を設置して会
合に使っているほか、青年団がお祭りで、農事組合の会合、年3回の「お日待ち」などに使っている。

井代公民館 (新城市井代) 現存する

 灰色の建物で目立たなかったが、明らかに学校か役場などの公共建築だったものと思われるので、すぐ前にある家を訪ねて聞くと、元の七里村役場だと教えてくれた。ただし、いつ頃のものかは知らないということだった。そこで近くのお店に寄って聞くと、戦前の物だという話しであった。割合新しい建物に見えるから戦後につくられたものだろうと思ったが違った。 詳しくは文献を探すか、屋根裏に上って棟札を見るしかないようだ。

設楽町役場田峯支所 (設楽町田峯)

現在は隣のお店の所有となり、倉庫として使われている。ずいぶん傷んでおり、手入れもしてないのでこのままいけば長くは持ちそうにない。 貴重な建物なのでなんとか保存してほしいものである。

富岡西部の消防団詰め所(新城市富岡)

 消防団員の手で建てた小さい建物。下見板張り。屋根長にとび口のデザインが入れてあるところが消防団詰所の証拠である。現在は使われておらず内部は何もない土間になっていて、目の前にある門原野バス停留所の待合室のようになっている。

富岡公民館 (新城市富岡)

 前にあるお店の人の話しによると、昭和27年ころ建築された。 以前はここに八名郡の役場があり、隣には警察署もあり町の中心だったという。

本宿村役場 (岡崎市本宿町)現存せず

 名鉄の本宿駅の東側にある国道1号線の信号のすぐ南にある。以前から1号線を通るたびに、いかにも昭和初期の洋風建築らしい建物が目に入って、気になっていた。今回写真を撮りに行って、幸い近くに民生委員をしている人の家があったので建物の由来を尋ねると「町内に元総代で郷土史に詳しい人がいるから案内してあげる。」と強引なくらい親切に連れていってくれた。
紹介された鈴木幸明さんは、東海道の歴史の本を書くのに調査のため軽自動車で何度も京都や東京にまで出かけたような大変エネルギッシュな人で、今も次の著作の準備中で県内を走り回っているということだった。この役場の建物のほか、本宿町の歴史や今後の郷土の文化振興の在り方 (役場の建物の利用法も含めて) など多くの話しを聞かせてもらった。

以前の村役場は明治3 5年 (1902) に法蔵寺の建物を買取り改築したものを使用していたが、大正期に新築の計画が起こり、現存する建物が出来上がったのは昭和 9 年である。設計は大正時代のものという。木造2階建て瓦茸き。幅 8間、奥行き 4間半。周りに6 0 センチの犬走りが付く。後部に付属の建物が付け加えられていたが、現在は元の印刷室部分を残して取り払われた。正面中央に 2間の車寄せがあり、切妻屋根の正面には灰色の壁に白い漆喰で大きな植物模様が浮き彫りにされ、全体をひき締めるアクセントになっている。入り口を入ると、カウンターの付いた窓口と事務室があり、役場当時の姿がそのまま残っている。右手に応接室があり、その奥に村長室がある。左手には奥に続く通路をはさんで会計室があり、通路の奥には 2階への階段がある。2階は3つの会議室 (大会議室 1 、小会議室 2 ) と小さい控え室が1 つある。 3 つの会議室には現在畳が入れてあり和室のようになっている。花崗岩の門柱もあったが、危険だということで今は裏手に移された。

昭和 3 0 年に岡崎市に吸収合併されてから後、しばらく市役所の東部連絡所 (支所) とされ、公民館となった今でも連絡所と呼ばれている。 同時に、岩津町、福岡町など八カ町村が岡崎市と合併したが、元の役場が残っているのは本宿だけである。 今は選挙の時に投票所として使うほかは2、3の趣味の会が部屋を利用する程度だという。

鈴木さんによれば、平成 7年、国道 1号線の拡幅工事があった時に1300万円をかけて修理がなされた。担当した大工さんの話では1 、2階の通し柱でしっかりした構造だったそうだ。今後この建物をどうするか市役所の方で検対しているが、まだ結論が出ていないそうだ。 鈴木さんは、せっかく大金をかけて修理したことだし、途半端な利用法では勿体ない。広域合併で額田町も岡崎市に合併する事だし、市内東部地区の中心としてこの建物を使って町興しのために何か有効利用ができないかと考えているそうだ。私は、この建物は十分その資格があるのだから、まず登録文化財に申請してはどうかと話した。

付録 名鉄本宿駅舎 現存せず

 平成4年に、国道 1 号線の拡幅工事に関連して名鉄の線路と駅を高架に変える工事で、本宿駅舎が取り壊された。切妻屋根に塔を乗せた小振りだが特色のある形の木造駅舎だった。地元では「明治村に移築できないか」と名鉄
に頼んだそうだが、駅舎は古いものの (大正15年4月1日開業)上に乗っていた塔は昭和の初め頃に後で付け加えそえたものだから駄目だと断られたという。当時東海道の海の観光名所である蒲郡と本宿を結ぶ鉢坂トンネルが開通し、昭和 9年(1934)に蒲郡ホテルができると名鉄はここにアメリカ製の天井開閉式の観光バスを走らせ、大人気となったという。これに合わせて終点の蒲郡ホテルのシンボルの塔に呼応して出発点の本宿駅の屋根に八角形の塔を付けたそうである。このユニークな形の駅舎は昭和初期であっても十分保存価値があると思うが、依頼先が「明治村」というのが不運だったかもしれない。

その他

富岡西部集落農事集会所 (新城市) 元は富岡中学校の校舎だったという。
元本代郵便局 (東栄町栗代) 元役場可代支所 (東栄町栗代)

参考 文化財になった木造建築

新城市川合の消防団屯所 (新城市川合)

 旧鳳来町消防団第 7分団第 2部屯所。平成18 (2001)年に町の有形民俗文化財に指定された。現在はきれいに手入れがされ、解説表示板も設置されている。その説明によると、建物は大正10年代に消防団恵所として建築され、字連ダム建設 (昭和33年竣工)の時には警察官駐在所としても使われたという。間ロ 3間、奥行き2間の木造総 2階建て下見板張りの小振りな建物である。屋根は瓦茸で屋根上には丸いドーム屋根の塔が建っている。入り口にはアーチ型の庇が付いていて可愛いい小振な洋風建築である。

額田郡公会堂、物産陳列所 (岡崎市朝日町)

 今は岡崎市郷土館となって岡崎市役所の東3 0 0メートルほどの国道1号線沿いにある。ピンクと緑色の2棟の建物は遊園地にある建物のようである。
 大正2 年(1913)額田郡岡崎町に額田郡公会堂、額田郡物産陳列場の2つの建物が建てられた。木造平屋建て、桟瓦葺きのルネサンス様式である。この2つは日本における最初期の郡立の公会堂と物産陳列場の建築で両者が一組で現存する貴重なものである。大正 5年市政施行に伴って額田郡から岡崎市へ譲渡され半世紀以上にわたって使用された。新しい市民会館の建築により、昭和 4 4年から郷土館と付属収蔵庫となっている。

 公会堂(郷土館)は木造平屋建て。屋根は寄棟で様瓦昔き。主体は講堂で中央に玄関、両連に控え室が張り出し、端が正面に向かって切妻になっている。向かって左に脇玄関と便所が付け加えられている。正面玄関は角柱で支え、屋根に手摺飾りを乗せている。玄関上の軒端には漆喰で装飾された大きい半円の破風を付け、建物のデザインの中心となっている。両翼の妻壁にも講堂の演壇にもルネサンス様式のデザインがたっぷり漆喰で描かれている。

 物産陳列場 (付属収蔵庫) もよく似た作りだが、小振りで、玄関も底屋根のみ。しかしその上にアーチ形のガラス欄間が付き、屋根には千鳥破風屋根が乗っていて繊細な作りである。 壁面上部には四つ葉のクローバー形の明かり取りの窓が並んをでいてメルヘンチックな印象を与えている。

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