豊川市小坂井町平井の石碑群

地域と歴史

ややもすると我々の歴史学習は教科書の暗記で終わる傾向がある。学校の教科書は政府の仕組みや政治の動き、将軍や学者の名前が連ねてあるが、そこに記述されない地方にも多くの人々が生活していた。戦乱の中でも平和な時代でも無数の人々は黙々生産に励み、子孫を育て、時には喜び、時には涙を流して生きてきたのだ。
歴史は中央と地方が相互に影響を与えながら作られてきたのだ。
それは今を生きる我々にとっても同じで、有名、無名の人間の行動の総体として歴史が作られていく。歴史はお寺の過去帳のように死んだ人の名前を羅列したものではない。我々が「未来をいかに生きるか」ということを学ぶすぐれた道具なのである。

平井の石碑について

小坂井町の南端に稲荷山貝塚がある。小坂井町教育委員会の発行する「小坂井の史跡」 によると、この貝塚は明治33年に大林意備氏により報告されて以来三河の代表的貝塚として知られた。縄文晩期から弥生中期のもので大正11年の発掘では人骨51体が発見されて全国の学会から注目されたとある。稲荷山貝塚は小さな塚の上に稲荷の詞があり、正面斜面に幾つかの石碑が建てられている。鳥居左手の奥に小さな石碑が2 つあるが1つは、まるで立て札のように粗末な物で表は「石器時代遺跡」とだけあり、裏は「明治三十□年 大林意備発掘 建石」とある。もう1つはやや大きく、表に「大林意備翁発見 石器時代遺跡 従六位勲六等島内藹書」、裏に「明治三十三年春発見 大正元年冬建之」とある。 前者は本人が建てたものかも知れない。貝塚は塚の後方一帯に広がっているはずなのだが、現在は住宅が立て込んでいて面影は全く無い。
ここにはその他3基の石碑も歴史を学ぶ上で重要な史料なので以下概要を記す。

蓑笠騒動 (農民一接) に関する碑

鳥居の右手に小振りだが新しい石碑が立派な基壇の上に建てられている。碑面には「藤田善三郎翁顕彰碑」とある。 裏面には説明文があり、これが幕末の村方騒動の一つである「芝笠騒動」 で平井、伊奈、日色野の 3 ケ村の一揆の代表となった人物であることがわかった。この事件がユニークなのはよくある年貢減免闘争ではなく、梅藪、前芝村との海の海苔場の割振りの不公平に対する吉田藩主への直訴運動でもったことである。慶応2年8月1日、3ケ村の男子は全員が蓑笠をつけて舞々辻 (前山公民館の場所) に集合し、下地まで押し寄せたのである。 同じような事件に関して豊橋の高師(上野町 円通寺)に「義人庄屋源吉の碑」がある。
 安永 3 年、凶作に際して人彼は年貢減免の直訴をし、その願いは聞き届けられたが、法を犯したとして源吉は死刑を宣せられている。 村民こぞって藩に助命を願い、死罪を免ぜられるものの入年中5年目に病死している。身分制社会の江戸時代においては農民が一撲や直訴を行えば厳罰が与えられた。そこで代表者が1 人で領主に直訴を行うのだが、その場合でも当人だけでなく妻子までが連座して処刑されることがあった。
 平井の藤田善三郎の場合は豊川の洪水で吉田大橋が流されていたため一撲軍が城下に及ばなかったこと、幕末の混乱と将軍家茂の死などが重なり幕府から穏便に処理するよう沙汰があり、また明治維新の特赦もあって命が助かっている。 石碑が建てられたのは昭和51年で建立は平井漁業協同組合である。

2 . 改耕碑 (耕地整理の碑)

塚の右端和商には3メートルほどの大きな碑が2基建っている。 手前右側にあるのが改耕碑である。どういう訳かこの碑には蔦が全面に生い茂っていて表面の大きい字すらはっきりと読めないほどであった。 恐れ多いような気がしたが、碑文が読めてこそ碑の意味があるはずだと考え、思い切ってバリバリと蔦をはがした。 そこで初めてこの碑文の文字を書いた愛知県知事の名前が彫ってあることが分かった。裏には大正 3 年から 8年にかけて行われた耕地整理の経過が記されていた。ただし、碑文は全文漢文のため読むのは大変である。
これでは長く後世まで、また広く人々に伝えようという石碑の意図が果たせていない。

小坂井町内には、明治時代に土地の開墾に尽力した今泉新衛氏の碑が伊奈若宮八幡宮に、明治末から大正初めにかけて行われた豊川市の牛久保から下流の平井、豊橋の下五井にわたる広範囲の排水路と耕地整理の大工事にかかわる記念碑の 1 つが小坂井の五社稲荷に、昭和19年から20年にかけて行われた伊奈の耕地整理の碑が農協伊奈支所の横にある。

3.忠魂碑

塚の右端の高い所にあるのが「死生倶是忠] の碑、塚の右手中段にあるのが「平和之礎」の碑である。①「死生倶是忠」 の碑は戦前各地で盛んに建てられた忠魂碑の1 つである。戦死者を顕彰し、戦意高揚を計ろうとする目的で建てられたものが多い。 この碑の場合、戦死者の名前だけでなく戦争従軍者の名前も刻んだため「死ぬも生きるも供にこれは忠誠心である。」という文面になったのだろう。横に「神宮大宮司正三位子爵三室戸和光」と題字を書いた人の名がある。忠魂碑の題字は陸軍大将などという肩書きの人が書いたものが多いが、平井地区では伊勢神宮となにか特別ながつながりがあったのだろうか。裏の文面には上段に陸軍歩兵上等兵勲八等功七級酒井仁三郎明治三十七年八月二十八日於清国遼陽戦死歩兵一等卒勲八等功七級神谷仙太郎明治三十七年九月四日於清国遼陽戦死とあり、2段目には明治三十七八年戦役従軍々人として2 4名の名前が列記されている。その下に (後で追加したようにも見える)明治二十七年戦役従軍々人として4名、また 従軍属として2名の名が上げてある。

その後に建設委員1 6人の名があり、最後に明治四十二年一月建之 平井中 とある。

碑文によると明治二十七年の日清戦争に従軍した4人のうち、3人は明治三十七年の日露戦争にも従軍しており、その1 人が戦死した神谷仙太郎氏だった。

この碑によると平井地区 (I旧平井村) では日清戦争に従軍したのは4人。 日露戦争に従軍したのは2 6人でそのうち2人が戦死している。 そこに日清戦争と日露戦争の規模の何いがいかに大きかったかが分かる。 平井のような小坂井町の中の小さな部落でこの数字である。 小坂井町で愛知県でまた全国でどれ程多くの青年が戦争に駆り出されたかを想像しでほしい。

「小坂井町誌」 (小坂井町発行・昭和51年) によれば、平井部落の人口は明治12年が 576人、明治41年が 929人である。 戸数は分からないが小坂井町全体の人口と戸数から計算する (明21年の人口 4, 387、戸数 820. 明41年の人口 5, 570、戸数 950. 単純平均を取ると1戸当たりの人数は 5.6人. この比から戸数を計算する) と、明治12年が 112戸、明治41年が 165戸となる。 大雑把にいって明治27年の日清戦争の時期には120 130 戸、明治37年の日露戦争では140 て150 戸あったと考えていい。 日露戦争で2 6 人が従軍したということは、1 0 0戸のうち1 7 戸の割合で赤紙が来たことになる。
②⑨「平和之礎」 の碑は戦後の新しい碑で題字は横書きになっている。 題字の下に「国務大臣環境庁長官 上村千一郎書] とある。裏には石碑建立の趣旨、戦没者殉職者氏名として6 3 名の氏名、戦友会物故者氏名 4 9名、戦友会会員氏名7 5名が彫ってあり、「昭和五十四年十一月 戦友会建之] とある。

趣旨には日露戦争以後の従軍者、戦没者、終戦当時の軍席の人々の名前を刻んだ、とあるが、日露戦争は含まれていないようである。 それ以後の戦争といえば第1 次世界大戦があるがこれは日本全体でみても戦死者はわずかなので、この碑の中には含まれていないだろう。ここに刻まれているのは昭和 6 年の満州事変から日華事変、太平洋戦争に至る、いわゆる十五年戦争の従軍者といっていいだろう。 戦没者、戦友会物故者、戦友会会員の合計1 8 9名、この出征者1 8 9名中、戦死者6 3名は死亡率33.3パーセントということになる。 昭和 4 年の平井地区の人口は 1, 213人。 前掲の計算方法をそのまま当てはめて、戸数を216戸前後と仮定する。 1 戸で兄弟が複数従軍した家もあるだろうが、それを無視して単純計算すると87.5パーセントの家に赤紙が来たことになる。誠に異常な状況である。これでは国の経済がまともに成り立つはずがないということが分かるだろう。同じ小坂井町内の若宮八幡宮にも同様の記念碑がある。

その裏面の碑文によると、日中・太平洋戦争時に伊奈には2 2 5戸があり、徒軍者は2 4 5名、 戦死者は6 0名だったという。

これは小坂井町だけの話ではない。忠魂碑はかつて行政の手によって建立が奨励されたものなので日本中どの町でも村でも大きなものが残っている。 探せば必ず身近な所に発見できるはずだ。かつては戦意高揚をはかる手段として利用された物であり、 戦後は軍国主義の象徴のように見られて普段はかえりみられる事もないが、遺族からすれば忘れられない家族の記念碑である。 しかし遺族でない者にとってもこの記念碑は歴史の、しかも国民の生活に根差した歴史の資料として学ぶべき貴重な史料であり、未来に受け継いでいきたいものなのである。

歴史の対象である人間社会は一面から見ただけではその複雑な姿を理解するのは難しい。
様々な側面からのアプローチが必要である。石碑はその良い例だと思う。紙に書かれた歴史書に対し、石に書かれた歴史という言葉もある。権力者の建てた碑もあるが各地にある多くのものは庶民が金を出し合って建てたものである。 石碑を建てるという事は百年も千年もの後まで記録を残をうとすることであり、手間も費用も各段にかかる。 そこまでして建てたのは人ん々に並々ならぬ強い思いがあったということである。その様な庶民の思いを踏まえた上で学んだ時に歴史が真に理解できるのではないかと思う。

私事ながら以前旅行中に偶然山本宣治の碑に出会って驚いたことがある。
山本宣治は戦前「山宣」と呼ばれ、人々に敬愛された政治家である。 実家は今も続く 宇治の大きな料亭旅館である。 大学で生物学を学び、農民への家族計画の衛生教育活動がきっかけで困窮する小作農民の救済活動にかかわる。 後に労働農民党から立候補して国会議員に当選した。 政府の労働運動弾圧や治安維持法に反対し、貸しい人々の側に立って奮闘するが、ついに右翼のテロによって命を奪われた。 農民たちは苦しい生活の中で資金を集めて彼の記念碑を建てるが、軍国主義の風潮は益々強まり、警察から社会主義者の侯はまかりならん、と破壊を命じられる。 農民たちは夜間密かに碑を取り去り、穴を掘って理め隠し、破壊を防いだ。 戦争が終り、自由が回復したとき、人々は地中から石を掘り出して碑を再建したという。この話を聞いたとき、私はまるで秦の始皇帝の思想弾圧のような話だな、と思ったが同時に農民たちが石碑に対しどの様な深い思いを持っていたかとい
う事を知り感動した。

平井稲荷山古墳

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