はじめに/姫街道の歴史:1998年の姫街道ガイドブック
姫街道について書かれた本は歴史、文学、ハイキングガイドなどたくさんあるが、いずれも専門的でむつかしかったり街道の一部分ついてしか書かれていなかったりするものが多い。以前は私のような素人が姫街道について興味を持って、ちょっと訪ねてみようと思っても、姫街道全体に関する適当な入門書はあまり無かった。
その後あちこち資料館や図書館を訪ねるうちに県や市町村が発行した良い本やパンフレットを手に入れることができたが、残念ながらこれらは町の書店では販売していないし、一般の人ではどこでどうしたらに手にはいるかもわからない。また姫街道が通っている愛知県と静岡県は隣同士で一つ山を隔てているだけなのに、行政や放送などでは隣県の情報が全然入って来ない。
姫街道の距離の長い静岡県の方では関連図書の出版数が多く、書店や図書館でも探しやすいが、愛知県内に住む私としてはどんな資料があるのかという基本的情報を手に入れるのにも苦労した。そこで最初は普通の観光案内書と5万分の1の地図を頼りに出発した。
秋街道を歩いていると、道々で楽しくハイキングをされている人達にたくさん出会った。そこで、専門的でなくていいから、歩く時にちょっと参考になるものがあったらいいなと考えて簡単な案内書を作ってみました。 歩きながら見られるようにコンバクトな大きさにすることを目指しました。。お役に立てば幸いです。
姫街道の歴史
■姫街道の隊史
姫街道は愛知県御油宿から静岡県見付宿の問を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道の脇街造である。正式には本坂通と呼んだ。 愛知県と静岡県の境にある本坂峠はこの間の難所である。本坂の名の由来は古代において愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)てあり 、「穂の坂」または「穂の境」がなまったものと言われる
中世末期から近世初期にかけて栄えたが、江戸幕府により東海道が整備されると険しい山越えのある本坂通はさびれ、「ひね」 た脇街道に転落した。そこで本街道である東海道を男、脇街道の本坂通を女に見立てこれを「姫街道] とも呼ぶようになっ たという。一説には東海道の新居の関所を「今切関所」ともいい、新居・舞坂間を「今切の渡」と呼んだため女性にとって縁起が悪い言葉として嫌われ、また船の危険を避けるため女性はこのルートを避け、本坂通を通ったからともいう。
ところが1707(宝永4)年東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊され通行不能となって俄然交通は本坂通に集中した。翌年東海道は復旧し幕府は本坂通の通行を禁止したが、 危険を感じた旅人の多くは本坂通を利用した。1764 (明和元) 年幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の支配下においた。ただしその管轄地は御油一気賀一浜松ルートになっている。 これ以前には今も一里塚が残っている気賀一市野一安間ルートが本道であったが、このころ浜松宿が大い発展し、逆に市野宿は定期市が他の村へ移り宿電が衰退していたためらしい。
明治 2 年新政府は諸道の関所を廃止し古い街道の時代は終った。