古地図を読む①:大日本道中工程細見記大全

地図は科学知識に基づいて作成されるが、同時に作成された時代の社会状況も映し出す。古地図は作成当初の地理的必要性を失った今でも様々な情報を教えてくれる。

大日本道中工程細見記大全 (文化六年)

文化、文政時代は江戸庶民の文化が花開いた時期で、庶民の経済力の拡大は人と物の交流を活発化して、伊勢参りをはじめとする旅行ブームが起こった。必要に応じて多くの旅行案内書や街道道中図が出版された。

一方19世紀末のロシアの南下に危機感を持った江戸幕府は国境問題に取り組み始めた。その一環として文化5年(1808)から間宮林蔵が2度にわたる樺太探検を行っている。この調査で林蔵は間宮海峡を発見し、のちの世界地図にその名を残すことになった。文化7年(1810)林蔵は「黒竜江中州井天度」(北海道大学のHPでは「井天度」という表示になっているが、意味不明なので「並びに天慶(府)」の間違いではないかと想像する。実物を確認していないし手元に資料もないのでので、私が間違っているかも。)という史上初の樺太と対岸大陸の詳細な地図を作成するが、その前年に発行されたのがこの街道道中図である。自筆図はシーボルトにわたり、現在オランダのライデン博物館にある。林蔵の地図は軍事上の極秘資料だったはずで庶民が知る由もなかったであろう。現にシーボルトは後に日本地図を持ち帰えろうとして発覚し、国外追放となり、関係した日本人は死罪となった。

当時のヨーロッパは極東に関心を持ち始めていたが地理的には未知の部分があった。最先端のフランスの地図では陸地のサガリィンと樺太が別々に描かれていた。ロシアは1849年の調査で海峡であることを知ったが、1853年に起こったクリミア戦争では英仏連合艦隊はこれを知らず樺太湾に追い込んだと思ったロシア艦隊は間宮海峡を抜けて逃げおおせたのである。湾と思い込んだ海峡は一部が特に狭まっており黒竜江から下る膨大な水は樺太島に当たって南北に分かれて流れる。南から北上すれば水は北方から一方的に南に流れて来るから大きな川に入ったと勘違いするのも無理はない。大陸と樺太島の間は狭いので夏は舟、冬は凍った海を歩いて渡れるから、年に一度毛皮などの税を徴収に来る清朝の役人にとって関心事ではなかっただろう。

話を大日本道中工程細見記大全に戻そう。当時の道中図が蝦夷では南部の松前くらいしか載っていないのに、この図は蝦夷全体が載っているだけでなく、クナシリ、エトロフなど千島南部まで載っていて異色である。ここまで旅行する庶民はいない。科学的探究心なのだろう。北海道は細長い芋のような形だが。さらに大陸では達且(韃靼)の北に「カラウトシマ」の記述。黒竜江のような大河の図もある。樺太が島なのか、大陸の地続きの半島なのかという世界的課題を知っていたのか、大陸の一部という図でありながら「シマ」という記述で可能性を示しているように見える。この年、林蔵はまだ探検中である。

古地図を読む①:大日本道中工程細見記大全” に対して2件のコメントがあります。

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