見附(磐田市・見付)/姫街道の歴史:1998年の姫街道ガイドブック

 奈良時代に遠江国の国府が置かれた古い歴史をもつ町。東海道は見附宿の西はずれで折れ、現在の磐田駅前まで大きく南へ曲がり蛇行していた。これは中泉にあった代官所が旅人を監視しやすいようにそうしたのだともいわれる。旅人には禁止されていたが、見附宿の西からまっすぐに西へ向かって池田の渡しで東海道に合流する道があった。これを姫街道に加える説もある。一般には見附近道、池田街道と呼ばれ、「東海道中膝栗毛」では北八は馬に乗って東海道を行ったが、弥次郎は徒歩で近道を行って天竜川で北八 (喜多衝)を待ち受けており、よく使われたようである。

渡船場(豊田町)

天竜川東岸の渡船場。西岸の渡船場は現在河川敷に入ってしまった。渡船場は3か所あり、増水時には上、通常は下の渡船場が使われた。堤防に石碑が建てられている。明治16年に池田橋が架けられた。今は池田から磐田警察署までの道筋はほとんど失われて、たどるのが困難である。

行興寺

平宗盛に愛された熊野御前の墓がある。樹齢800年の藤の木は天然記念物に指定されている。

一言観音

元は一言坂にあった。武田信玄に敗れた徳川家康は一生に一度だけ願いが叶うというこの観音に戦勝の一言を願ったという。現在は知恩斉山門の西側にまつられている。

街道残存部分

道幅2メートル弱、長さ10メートル程が昔のままという。

一言坂

磐田原台地の西端にある坂。「姫街道跡」の標識がある。南側国道1号線沿いには武田軍と戦った本多忠勝が見附に火を放って一言坂から浜松へ引き上げたという「一言坂の戦跡」の碑がある。

磐田警察署前

街道はここで国道 1 号線と接し、またすぐ北へ離れる。

秋葉山常夜灯

坂の下の三叉路にある。裏に「元治二年歳乙丑春壬正月| とある。

姫街道分岐点

東海道が南へ 90度折れている角にある小路が姫街道の起点になっている。左手の店の前に「これより姫街道 三河御油まで 遠州見附宿」の標識がある。

見附(見付)宿

江戸からも京都からも60里という東海道の真ん中。京から下るとここで初めて富士山が見えをたことから「見付」の地名になったという。本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡がある。

旧見附学校

明治 8年にできた木造洋風建築の学校。五階建てでは日本最古。当時の学校の建築費は 50円~ 100円だったのに、ここは4,854円もかけて作られた大変モダンな学校である。今は資料館として公開されている。

国分寺跡・府八幡宮

市役所の北側は奈良時代には国府があり、このあたりは遠江国の中心であった。一帯は公園になっている。

宿屋・大孫

創業寛政12年の老舗。江戸時代は一膳飯屋だったという。併設のレストランには竹の器に入った風流な「宿場弁当] などがある。

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