三方原(気賀の東一浜松北部)/姫街道の歴史:1998年の姫街道ガイドブック
気賀~浜松の間はバスの本数が多く便利である。
渡船場
落合川(都田川)は渡船で渡った。川の西側は気賀村で近藤家領地、東側は刑部村で浜松領。現在は落合橋がかかっている。川の東には本坂道と秋葉山道の分岐点があり、ここにあったと思われる「左あきは山道」と自然石に彫られた道標が都田川の200m上流東岸にある。また落合橋の西たもとには地蔵があり光背に「右はままつ三里半 左秋葉山道宮口へ二里 二俣へ四里」の文字が彫られている。
刑部城址
永禄11年(1568)内山党がこの城にたてこもって徳川家康と戦ったが破れ、以後廃城となった。小高い丘で古井戸が残っている。
秋葉常夜灯 (細江町九区)
本体はなく鞘堂のみ残っている。 弘化4年の棟札がある。
長坂
三方原台地の西比端の坂。天正年間、刑部領主の服部小平大はこの坂で何者かに襲われて落命したという。
老ケ谷・一里塚
江戸から68里目の一里塚。現在、東の塚は無く、西の塚跡には石碑が建てられている。
千日堂
寛文11年(1671)近藤家下屋敷にあった観音様を移したのがおこり。
秋葉山常夜灯(相江町老ヶ谷)
辻の角にあり。「秋葉山文化八辛未六月吉日當所若者」と彫ってある。
六地蔵
この場所の西にある人竹やぶが、かつて刑場であり、刑死した者の霊を慰めるために正徳2年(1712)に建てられた。
曲がり松
江戸時代には枝ぶりの良い松があったが、今は枯れて二代目の松が植えられている。
東大山・一里塚
江戸より67里目、安間より3里目の一里塚。道の両脇に塚の跡が残っている。
松並木
道の東側は切られて無いが、西側には 3.7 キロにわたって松並木が残っている。
三方原神社
松並木から東に200メートル入った所にある。境内には三方原各地に散在していた石碑が集めてある。拝殿東のお堂にある不動明王の光背には「右はま松道 左いけだ道」と彫られている。もとは街道の三方原追分にあったと思われる。
道標(北星中学校前)
正面に「右みやこだ 中かなさし 左きが 道] とあり、右側面に「慶応四年」と彫ってある。
三方原追分
国道257号と県道磐田細江線が斜めに交差している場所。姫街道(本坂通)の三叉路で西北に進めば気賀宿に至り、東に進めば市野宿を経て、安間か見附で東海道に合流し、南に進めば浜松宿に出て東海道に合流することになる。静岡県内で東海道と姫街道の分岐点は三ケ所あるが当初は安間村から分岐して市野宿を通り気賀宿に向かうルートと、浜松宿から気賀宿に向かうルートの両方が用意されていた。その後城下町でもある浜松が経済的に発展し、市野宿は次第にすたれていった。明和元年 (1764) に道中奉行の管轄となるが、浜松・気賀ルートが本坂通(姫街道)として定められた。また正規ルートではないが市野宿から安間に南下せずまっすぐ東進して池田の渡しで天竜川を渡り、見附宿で東海道に合流するルートもあった。