国分寺国分尼寺とお経の話

  

   新・国分寺国分尼寺ボランティア日記5     2025年3月6日 三浦茂

 はじめに

天平の里のボランテアガイドをするようになって古代史の勉強をするようになったが、分からないことが次々出てきた。今は大乗仏教のエッセンスである般若心経を一から読み直している。お経の中身を解読してみると、釈迦の教えをことごとく否定しているものだった。経文は「不〇不〇不〇、無〇無〇無〇」」と、釈迦が説いた事柄を次々と否定して、最後には釈迦の教えでは「悟り」も「救い」も無い。「救いにはギャーティー 、ギャーティーという呪文が最高である」という、釈迦が聞いたら腰を抜かすような内容だった。そこで考えた。

 釈迦は心の内面に注目し、悩み苦しむ人に寄り添い、精神カウンセラーのように心を分析して安心させ、穏当な生活リズムを維持させることによって悩みや苦しみを解決する方法を採った。しかし後にこれでは対策が不十分だとして、改革派は悩みや苦しみの原因の外面(外因の戦争、飢饉、疫病など)に注目した。古代では解決不可能なこれらの問題(今なら国連やワクチンがある。)から人々を救うには超能力的パワーに頼るしか手段がない。釈迦に代わる救世主としてのスーパーマン(菩薩)を信じることによって現実の不安や苦しみを持つ人びとを救おうとした。これが大乗仏教である。釈迦は神格化されて人間から宇宙そのものに格上げされ、名誉顧問になってしまう。非合理、非現実なもので苦しんでいる人を救おうとするのは宗教である。インドでは釈迦の死後、その教えは形式主義に陥り、思想面でも合理性、革新性が後退していた。こうした中で大乗派は釈迦の教えを換骨脱胎して自己修養組織を宗教に変質させたのである。大乗仏教は東アジアで大きく発展したが、その結果我々は本来の釈迦の説いた優れた思想に触れることがなくなったのはもったいない。悪意があったのでは無いのだが、釈迦の名を借りながら釈迦の教えの枠組みを否定した般若心経の罪は重いと考える。しかし大乗経典の中には釈迦の理論を伝えているものもあり、大乗内には矛盾が併存しているのが不思議である。

 今回の疑問 国分寺、尼寺と仏教

聖武天皇は国分寺に金光明経を納め、国分尼寺には法華経を納めて読経させた。(尼寺でも金光明経を読経した。)時々見学者から「なぜ国分寺に尼寺が作られたのか。」と質問がある。私もなぜ本家の中国になかった尼寺が日本に作られたのか疑問だった。一応、隋の文帝が僧尼二寺を作った先例や唐の高宗が諸州に寺院と道観を置いた例があり、日本には道教は無いので僧寺尼寺ペアにしたという意見がある。また続日本紀によれば国分寺設立は光明皇后の強い意志で始まったとされるので尼寺が必要だったかもしれない。いずれにせよ一つでよい寺を二寺制にし、それぞれに経典にちなむ寺名を付け、違う経典を配布したのだから、その意図と寺の性格を経典を手掛かりに考えてみた。

 国分寺を「金光明四天王護国之寺」としたのは飢饉、疫病、内乱の危機に直面した聖武天皇が平安回復を願い「この経を崇拝すれば四天王が国難を救う」と書いてある金光明経に頼ったからとされる。私が不思議に思うのは、仏や菩薩に平安を願うはずなのに、(失礼ながら)下っ端の四天王に頼むことである。釈迦は浄土に住んで精神担当の仕事をし、下界のことは部下が担当する分業制なのかと思ったが、インドでは悪災は鬼神の仕業でそれから国土と人民を守るのも鬼神の力によるとされ、それにあたる地位の四天王が行うのだそうである。しかし大乗仏教では観音菩薩が人々のあらゆる苦難を救う仏とされるので、カースト社会であるインドの基準を出されても違和感がある。壬申の乱後、天武天皇は律令制を採用するとともに仏教政策を強化して中央集権化を図った。天武9年、初めて金光明経を宮中および諸寺に説かし、持統期には京師、四畿内で金光明経を講説させ、金光明経を諸国に頒布したという。聖武天皇も728年(神亀5)新たに金光明経を諸国に頒布した。(これは唐から新たに伝わった新翻訳版の金光明経最勝王経で、細かく区別することもあるが基本は同じなのでここでは金光明経のまま表記する。)このころ凶作、飢饉、地震に続き大規模な疫病(天然痘)が発生し、737年(天平9)に国ごとに釈迦像を作らせ、大般若経の書写を命じている。小康状態の後天然痘が再度流行し藤原四兄弟までが死に、日本の諸々の神への祈りも効果なかった。738年に今度は諸国に金光明経を講読させ、740年に国ごとに法華経10部を写させた。しかし藤原広嗣の乱が起こり政情の不安が続いた。741年に国分寺建立の詔が出た。この順序は大乗仏教の理論を集めた膨大な大般若経(空の理論体系)でも効果が限定的だったから、個別対応できる現場の職人(四天王)に頼ることを説く金光明経に重点を変更したように見える。(これは個人的想像です。)

ところで、金光明経によれば四天王は国を守る、とあるがどう守るか。金光明経は戦争が起きた時、このお経を読むと危害から免れるとされたので大乗仏教国に広まったという。その四天王品(章)では「もし国王や国民がこの経を粗末にするならば四天王はその国を去り、天災地変が続発し他国から侵略されて悲惨な目に合う。この経を大切にしてよく読むならば天地に災いなく国民は物心ともに豊かになり、天上界に生まれる功徳がある。」と説いている。政権を脅かすものは天変地異でもあるが、直接的には外国の侵略や内乱である。聖徳太子が四天王寺を建てたのは飛鳥時代の蘇我氏を筆頭とする有力氏族の脅威から政権を守るためであったろうし、壬申の乱を潜り抜けた天武天皇や持統天皇も豪族の武力と内乱に警戒心が強かっただろう。四天王の国土守備範囲は広いがその姿は鎧を付けた武人であり、第一の使命は国防、内乱鎮圧といった軍事的活動である。しかし生え抜きの軍人ではなく、厚遇されなければさっさと国を出ていってしまう外人傭兵部隊のようである。この性格は大陸文化出身の神の特性である。仏教は輸入品なので日本人の心情にはそぐわないところがある。平城京遷都で社会が安定期に入いれば一時その信仰の必要性は低下したかもしれないが、聖武天皇の時代になって新たに飢饉、疫病という災害が起って再び重視された。しかも同時に反聖武派の動きや藤原広嗣の乱、出兵準備までした新羅との外交問題も起こった。

 ここで私見。難問続出でなかなか成果を上げられないため、聖武天皇は金光明経が説く四天王に得意な軍事部門の仕事に専念させ、飢饉・疫病については法華経の力で解決しようとしたのではないか。軍事、政治の現実問題は自分にも打つ手があるが、飢饉、疫病は神仏に頼るしかない。皇后は信心が厚く、兄弟四人が疫病で一気に死んで疫病退散を望んでいるのでこれを任せよう。と考えたのではないか。(史料はない。)

 次に国分尼寺について

 法華滅罪之寺と称し法華経を納めた。

聖徳太子が書いた三経義疏は法華経、勝鬘経、維摩経についての日本最初の解説書である。法華経は常識を超えた不思議な話に満ちているがポイントは釈迦が永遠に生きていることと、すべての人が救われることを説いている。人といっても普通は女性は含まないが、提婆達多品に龍女成仏の教えがあり、女性でも救われるかもしれないと寓話的に書いてある。基本的に女性には救いがない、というのが古代仏教の考え方である。光明皇后はそのわずかな可能性に希望を持ったのではないかという説がある。しかし女性の救いについてなら前述した勝鬘経にはちゃんと書いてあり(ショーマン夫人が仏教の正しい生き方をしたので釈迦がそれをほめた。)、法華経を女人成仏の点で尼寺の根拠にする説は疑問である。ちなみにショーマン夫人が誓いを大声で述べ、仏をたたえる歌を歌った故事に由来する梵唄(ボンバイ)という歌(お経)は韓国の仏事では行われてCDまであるが、日本では天台、真言、浄土宗で行なわれているそうだが聞いたことがない。「声明」という発声練習のようなコーラスのような集団お経は一度だけ長谷寺で聞いたことがある。(高音、低音の声の掛け合いはゲームのようだった)その後色とりどりの衣をまとった僧侶群がお堂内を読経しながら列を作って右に回り、また左に回る列もあり、儀式がマーチングバンドの行進のように華やかだった。多くの日本人は鎌倉新仏教以後の質素な儀式の寺の檀家なので古代仏教が持っていた豪華絢爛な芸術文化の側面を知らない。これも残念なことである。私も同様なので機会があれば見てみたい。誰か詳しい人がいたら教えてください。(話を戻します。)

 法華経を軸に国分尼寺が作られた訳を「法華滅罪之寺」の言葉から考えます。以下は研究者の論文の要約です。

 「国分尼寺の思想」吉田一彦 (吉川弘文館「国分寺の創建」所収)

法華経に「滅罪」の言葉はない。女性は穢れがあり立派な存在に転生できないが法華経の力で罪を滅ぼし、成仏できる、という解釈が以前あったが、現在否定されている。提婆達多品は唐でも奈良時代の日本でも重視された様子はなく、当時女人成仏の信仰はなかった。滅罪は女性の罪を滅ぼすのでなく、女性が国の罪を滅ぼすこと。災いは罪を犯す結果起こるが、国に罪があれば国にも災い(犯罪、病気、凶作、天地異変、死者など)が起こる。唐では洛陽の安国寺に勅許の法華道場が置かれ、尼が天台宗の法華三昧による滅罪活動をした。これが日本に伝わった。また法華経の「序品」に五逆の罪を犯した者が法華経の力で「瘡」(癩と並ぶ業病)にならなかった話が載っている。法華経による滅罪は不治の病の平癒に結び付けられた。聖武天皇は国内に蔓延する瘡を治める方策として法華経で滅罪を行う国分尼寺を建てたのである。

 国分寺、国分尼寺を二本立てで建てた理由とその性格を寺名を元に考えたが、 

別の観点の研究者の論文があるので紹介する。

「国分寺建立とその社会的背景」三舟隆之著 古都大宰府保存協会機関誌53号

 「続日本紀」の国分寺建立の詔の内容は

  • 近年の凶作、疫病に対し神仏に祈り、神宮を増し、釈迦仏を造り大般若経の写経を行って豊作になった。
  • 金光明最勝王経にある四天王の加護を得るため諸国に七重の塔を作り金光明最勝王経と法華経を書写させる。
  • 造塔の寺(国分寺)の立地、僧寺、尼寺の諸規定

となっている。「類聚三大格」にも同じ詔があるが、続日本紀編纂時にカットされたと思われる「願文」が続いている。それを要約すると

  • 神祇による護国
  • 歴代先帝の霊の冥福
  • 聖武天皇の身内の幸福、成仏(三浦注 橘諸兄も入っている)
  • 藤原氏の鎌足以後の一族の幸福(三浦注 一番長文である。)
  • 悪君邪臣やこの願を犯し破るものは本人子孫にいたるまで災禍に会い、

仏法無き所に生まれること。

続日本紀の天平宝字4年6月7日の条に「東大寺と天下の国分寺とを創建するは、本、太后の勧める所なり」とあり、

総国分尼寺である法華寺は光明皇后の父藤原不比等の邸宅を転じたものである。

これらから国分寺建立は聖武天皇の意思だけでなく光明皇后の影響が(非常に 三浦注)強かったと見るべきである。

東大寺も亡くなった子の基王の菩提を弔うために建立した金鐘寺が前身である。

国分寺建立の詔にある願文は不思議なものではない(仏教は祖先の霊を祭り、その保護を願うものである。)天平9年の疫病で兄弟を亡くした皇后にとって一族を守るために天皇家や藤原家の祖霊に祈願し守護を願うこの願文は重要であった。この願文は王権の追善供養の機能を持ち同時に王権結束強化を願ったものである。国分寺建立の詔は従来の「鎮護国家」のためでなく光明皇后を中心とする王権近親者の守護を願ったものではないか。(確かにその後の国分寺の記録を見ると聖武天皇や光明皇后の供養が大きな行事になっている。三浦注)詔の「護国」は国家ではなく、「王権」いわば自らの身内を守ることであった。

 金光明最勝王経については、四天王品から護国経として重視されたが、もとの金光明経では懺悔滅業を説いた懺悔品が中心で、国家にもある悪業を善業をつんで減除することを説いており、これが金光明経の護国思想である。国分寺建立の詔にも滅業障品が引用されており詔の基本性格は「鎮護国家」ではなく「懺悔滅業」的性格が強い。前世の罪を祓う悔過は769年(神護景雲3)から正月行事になっている。(興味深い論文だったので長い引用になりました。)

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