西気賀・気賀/姫街道の歴史:1998年の姫街道ガイドブック

西気賀

西気賀駅

天竜浜名湖鉄道のユニーク駅の 1つ。駅舎跡がフランス料理店になっている。

地蔵・塞の神

小引佐から岩根に下りる道有にある。

小引佐

姫街道の中で最も景色のよい所として有名。興浜名湖、寒山寺、東名浜名湖橋がよく見える。

久姫街道歌碑

街道の北、山側にある。

道祖神と馬頭観音

下村東山田の辻に並んをでまつられている。

ダイダラボッチの足跡

琵琶湖を堀った土を運んで富士山を作ったというダイダラボッチの足跡といわれる池。あまりにも小さい。

東山田の一里塚

江戸から69里目。急な坂を上った丘 (一里山) の上にある。 現在、塚はなくなっており石碑が建てられている。

修理殿松・山村修理の墓

永禄12年(1569)、堀川城が徳川家康によって攻め落とされた時、城将の一人山村修理がここまで逃れ、切腹した場所。里人がこの地に遺体を理め、松を植えたという。松は昭和初期に枯れ現在は二代目のもの。

二宮神社

後醍醐天皇の皇子宗良親王は南朝方勢力拡大のため井伊谷の井伊家に来ていた。延元3年(1338)親王の側室である井伊家の娘駿河姫は親王の軍を見送ってこの地に来たが急病でなくなった。親王の御座所のあった所へ宮をたて姫をまつった。

跡川の道祖神

姫街道と金地院道との分岐点に建てられている。 高き2 mほどの自然石である。金地院は宗良親王の妃駿河姫をとむらった寺。

長楽寺史生

弘法大師が創建したと言われる。 本堂、山門など江戸時代の建物のほか文化財が多い。小堀遠州作の庭園で有名。

堀川城址

永禄10年(1567)気賀領主新田友作らによって築城された。北側に都田川、西と南は人江に囲まれ東側に城門があった。今川方に属していたため徳川家康の三千の兵に攻められ落城。死者千、人捕虜七百人。跡地には石碑と首塚がある。現在の都田川は城跡の東南を流れている。

獄門なわて

家康は堀川城落城後、捕虜 700人をここで処刑した。その首を小川に沿った道にさらしたことからこの名がついた。「堀川城将士最期之地」の石碑がある。

気賀宿

慶長 6年(1601)に創設された気賀関は箱根、新居と並んで東海道三関所の |つ。関守は元和5年(1619)から明治 2年の関所廃止に至るまで旗本の気賀近藤家が12代にわたり代々拝命した。また気賀は宿場町で80軒の旅籠があった。

桝形と常夜灯

気賀宿西入口は石組の上に土を積み上げ矢来を組み門が設けられ、内側が桝形になっていた。桝形の石組の一部にひょうたんのデザインがあり面白い。常夜条は安政 4年(1857)に西町の若者たちが40両の金を集めて当地の安全を秋葉山に祈ったものである。

気賀宿

天正15年(1587)本多作左衛門によって、気賀は街道の宿と定められた。町家も整備されて山手に土塁、南は堀川、東に関所、西に木戸を作ってあり、その中に約80軒の町家が並んでいた。西町通りには昔の家並みが残っている。

本陣

気賀宿の本陣は 1軒で、気質宿の設定とともに中村家が勤めた。中村家は気が町および上村の庄家を兼任し、本陣の建坪90坪、門構はあったが玄関はなかった。本陣の向側に高札場があったが、いずれも当時の面影は残っていない。

姫街道民俗資料館

1階はイグサ栽培や漁労などのの民俗資料、二階には銅鐸などの考古資料と姫街道に関係する資料が多数展示してある。資料館の横には明治時代前半まで使われた産屋が移築されている。

細江神社

明応 8 年の大地震による津波でこの地に流れ着いたご神体をまつる。この故事から地震厄よけの神としてあがめられている。 境内にはこの地方のイグサ栽培の基礎を築いた近藤氏をまつる「イグサ神社」、天然記念物の楠がある。

陣屋

三千五百石余の旗本として気賀の領主および気賀の関所の管理を勤めた近藤氏の屋敷で関所の西にあった。 御殿と役所があり、役所の前庭にあった椎の木は実が大きく、かつて将軍家へ献上したことから江戸椎とよばれ、跡地の気賀小学校にのこっている。

気賀関所跡

度長6年(1601)、徳川家康により創設された。敷地 547坪(1805平方メートル) で街道をはさんで北に本番所、南に向番所と二層の望楼(遠見番所)があり、上に釣鐘が掛けてあり、下には大砲一門が備えてあった。平日は番頭 2人、平番 5人が交代で動務し、下番 1人、足軽2~3人がそれに従っていた。
 現在、関所東門(冠門)跡は町の中心の 4つ辻の西北角に石碑があり、本番所の一部が通りから一歩奥に入った所に残っている。また関所防備のため東門から宿の南側に治って設けられた要害堀が気賀四角付近から西に残っている。幅1.8メートル。

犬くぐり道

関所の取り締まりのため、付近の住人でさえ通行には不便をきたしたため、領主が作った裏道が「犬くぐり道」です。道の途中にむしろ 1枚をたらし、「立って歩く人間は通れないが犬がくぐるのはさしつかえない」という法の抜け道だった。そのため住人はむしろの下を 4つ足になって通りぬけた。武士は絶対に通らなかったという。

復元・気賀関所

平成2年に町役場の西に再建された。月曜休館

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